自分の口で考えてみる

 

普通誰かと会話するとき、特にマジメな話をするときって、まず頭で考えていたこと、

思っていたこと、自分の経験などが口から出てくるものだ、とは思いませんか?

 

頭に在庫していない話題になると、「ちょっと待って・・・」と言ってう~んう~ん、と

考えてから言葉を口にする。

理屈じゃなく、感覚的に知っていることを、言葉にして出そうと思う場合は

また「ちょっと待って・・・」、と言って、まずは考える。

少なくとも、私はそーいうのが当たり前だと思っていました。

 

ところが、つい先日そんな自分の口から、頭で考えていなかったこと、感覚的に理解しつつ

あることが、会話の中で自然と口から出てくる・・・という、あまり今までの記憶には無い

パターンの会話を、自分自身がしていることにふと気がつきました。

自分の口から感覚的に出た言葉を、自分の耳から「感覚的」に聞いて、

また感覚的に理解したことから、感覚的に言葉として出す。

 

変な話ですが、自分の発する言葉を聞きながら、「あぁ、自分はこう思っているんだ」という

納得を自分でしていました。

 

私は今までの仕事柄(もしくは性格?)の影響か、自分の口から発する言葉は

あらかじめ頭で考えて用意しておかないと不安だ・・・という傾向が強いように思います。

なので、自分の言葉はおおむね自分の頭の中の「理屈」には合っているケースが多いです。

しかしそんな「理屈」が、自分の「気持ち」に合っているかと問われると、大いに疑問が

湧いてきます。

 

 

最近ある事柄に対して、「あなたはどうしたいのですか?」というような質問を

投げかけられた事があります。

さして難しい質問ではない・・・と思ったのですが、結局答えられませんでした。

 

「あなたはどう考えているのですか?」という質問であれば、難なく答えられたのだと

思います。「どうしたい」と「どう考える」は、似ているようで全く違うものである、という事を

認識させられました。

 

 

私が言いたいことですが、どちらかというと頭で理解する「理屈」と、どちらかというと

感情・気持ちでとらえる「感覚」というのは別物であって、「理屈」と「感覚」がアンバランスな

状態の人は今の世の中かなり多いのではないか、ということです。

 

例えば、コンピュータソフト開発等の論理的な作業を行なう場合は「理屈」に長けてさえいれば

仕事ができ、芸術家のように閃きが求められる作業を行なう場合は「感覚」に長けてさえいれば

仕事はできるのかもしれません。

しかし、普段の生活で人とのコミュニケーションをはかる場合、一人で多くの種類の仕事を

こなさなければいけない場合、そして人らしく生きていく為には、「理屈」と「感覚」を磨くほかに、

「バランスをとる」作業が必要になってくるのではないか・・・そう思います。

 

そのバランスをとるための作業、それが「言葉を交わす会話」なのではないでしょうか?

 

 

現代っ子を例にしますが、幼い頃よりさまざまな教育を受け、情報はインターネットから

湯水のように得ることができ、「理屈」に関しては私が子供だった時代とは比較にならない

ほど多く得られるのが現代だと思います。

 

反面、会話はどうでしょうか?

共働きの家庭が増えてきたこと、少子化で一人っ子が多くなってきたこと、

学校に責任を押しつけて教育を放棄する親の急増、言葉で聞かなくても教材やネットで

疑問が解消できてしまう便利な世の中、大勢での遊びからゲーム中心のひとり遊びが

中心になってきたこと、親戚や隣近所との交流の減少・・・

といった具合にあげたらキリが無いのですが、さまざまな要因で子供の会話する機会、

つまり「理屈」と「感覚」のバランスをとる機会がどんどん失われています。

 

知識が増えるということは同時に不安も増える、私はそう考えています。

知識は「理屈」側に蓄えられ、不安は「感覚」側に蓄えられます。

そして会話をすることで、辞書のように記憶された「理屈」と「感覚」のバランスがとられ、

「記憶されただけの理屈」は「活用できる理屈」に変化し、

「不安が溜まった感覚」は「不安を乗り越えられる感覚」に変わる。

この能力こそが、人が人である理由、コンピュータには全く真似できない部分

なのではないでしょうか?

 

会話がなくなると、どうでしょう?

誰とも会話しなくても、とりあえず「記憶されただけの理屈」はどんどん蓄積します。

一方、「不安が溜まった感覚」は不安を消化する術が無いまま、理屈の蓄積に

比例するかのようにどんどん増していき、じきに自分ひとりの力では消化する方法すら

分からなくなるでしょう。

 

物事の良し悪しは理屈では知っている。しかし、感覚で受け止めきれない。

仕事に就いても、理屈はたっぷり持っているが、どう活用したら良いのか分からず、

更に増えた不安を持ち帰る。

そのうち、物事のとらえ方の大半が否定的になり、自分はダメな人間だ、世の中に

必要とされていない・・・と思いはじめる。

不安の大きさが許容範囲を超えると、自分がこうなったのは人のせいだ、と他人に憎しみを抱く。

矛先が親ならば、親にハジをかかせようと考えたり、殺そうと考える。

矛先が世の中ならば、自分は他人(世の中)の犠牲者だから仕返しをするだけだ、

と理屈をつけ、平気で傷つける。

 

 

どうでしょう?

上記はあくまでも私個人の見方にすぎませんし、実際にはもっと多くのモノが絡んでくると

思うのですが、あえて単純に「理屈」と「感覚」という言葉で表現してみました。

もちろん、全ての人に納得してもらえるとは思っていません。

 

ですが、「人と人との会話」には情報伝達以外にも大切な役割がある、これは事実では

ないでしょうか。

特にストレスがたまり気味の方には、ざっくばらんに会話できるような場所を探すことを

お勧めしたいです。

 

たとえば、若者とお年寄り、人生経験が浅い者と深い者同士が気軽に会話できるような場所、

そんなのが世の中にあっても良いかもしれませんね。

 

 

 

 

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このページは、しもべが2009年3月 8日 09:24に書いたブログ記事です。

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